Mozart 礼讃

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ずーっと、放ったらかしになっていたこの原稿。このまま年越しにするのもなあ・・・。で、書いちゃおうかと。

もう3週間程前になりますが、ちょっとした事情で観に行くことになった、ワルシャワオペラ「魔笛」。見終わって考える事がたくさん。たくさん過ぎて、考えがなかなかまとまらずに、次に観に行ったレニングラードバレエの「ロメオ&ジュリエット」(←これをロミジュリと略すのは嫌いやなあ!まあ、アイネクよりはましか?どっちもや!)の件の毒を吐いてしまったので、さらにまとまらないまま原稿が置いてけぼりになって。

ちなみに、上記のロミオとジュリエットのブログに対して、京都在住の(鞍馬に紅葉を見に行くなんて「オノボリサン」のする事やというお叱りもあった)年上の友人O野氏が、私の怒りの方向とその発想について「あなたが大阪人だということです。」とバッサリ断定するメールをくれました。な〜るほど!そういえば、東京では私は孤立というか、他人と意見が合わないと感じる事が多く、かなり仲の良い友人との会話(数は少ないですけど)でも、違和感を覚えて口を噤む事が多々ありました。YマハのM隈に「N田さんは、大阪に帰ったらその発想だけでビルが建つと思うんだけどなあ!こっち(東京)にいるから・・・」と言われた事すらある。

さてさて、魔笛・・・。(←リンクはWikipediaです。まあ、念のため・・・程度)

超有名なオペラ。Mozart最後のオペラにして、初めてのドイツ語テクスト作品。フリーメーソンの影響が色濃く反映され、様々な意味で問題作。

あのねえ。Mozartの作品だからこういう書き方するのかな?

これってオペラか?ちゃうちゃう!(まあ、モチロン、SingSpiel=ジングシュピール=歌芝居という言い方もあるのですけど)これ、Mozartはオペラと思って書いたのではないとまで思います。

オペラとオペレッタ(バケラッタではない←古っる!)の位置付けが明確に違うウィーンでは、上演する劇場まで替えているのです。J.Strauss「こうもり」だけは、オペレッタなのにオペラ劇場で上演される事もあるほど完成されている・・とか、Gershwin「Poegy & Bess」を「これはもうオペラである!」という評価がある・・などと、厳格な位置づけをする欧米人(米はどうやろなあ?ちょっと疑問)に対して、我々日本人は、オペラに対してあまり馴染みながなく、敷居が高いのもあるせいで、なんでもありがたく持ち上げてしまう傾向があるしね。そもそも教科書やプログラムの解説に書いてある、エラそうな評論家のもっともらしい文章を読めば、なんだかありがた〜いものみたいな気がするね。だから客(ファン)が減る(逃げる)んだけど。

Mozartって人は、例えば、聖なる楽器であるPosaune(Trombone:演奏者は必ずしも聖なる・・ではない!全然ない!!一人もない!!!)を、世俗作品である交響曲には決して使わないとか、コダワリというかきちんとした線引きのある人の様な気がします。(モチロン私見です)だからこそ、オペラにも明確な基準があった筈で、当時の感覚としてOPERはイタリア語を使用し、きちんと評価された脚本のある芝居を題材にしていたのでは?「これこそ本格」・・みたいな感じで。

で、魔笛は違う事を伝えたかった作品なのではないか、だから話の筋が??なのではないか、あの不完全な形でも自分の作品に取り上げたのではないか?・・・と。

すみません。魔笛を知らない方には全く伝わらない内容ですね。ここで魔笛について解説するのもなんなので、後日にどこかできちんとフォロウしますが、今日はこのまま続けます。

そもそもこの作品は、ものすごく無理があります。話がきちんと繋がってない。最初のシーンで王子(こいつが何者なのかも最後まで明かされない!)が大蛇に襲われている理由も説明されないし、なぜ王子が討つことが出来ない大蛇を、女性3人が(なぜここにいるのかもワカラナイ)簡単にやっつけてしまうのかも、夜の女王とザラストロの関係も、敵対する夜の女王の娘であるパミーナはなぜ保護するのかも最後まで不明なままで、な〜んにも説明しない。

全篇を通して変わらずに伝えられている事は、「女性の饒舌」に対して「寡黙な男性」の素晴らしさ崇高さ。ほとんど女性蔑視とも思える!(←私は言ってないよ)男性は、崇高な目的に向かって修行し、自身を高め、時には危険をも顧みずに高い目標・理想に向かって進んで行くのに対して、女性はそれを邪魔しようとする。邪魔する女性は叩きのめして良い。女性は、男性の言う事を聴き、男性の言う通りに従う女性の姿こそ正しく、これ以外に女性の生きる道はない。男性も真面目に生きれば、高い理想に行きつけなくても、必ず身の丈に合った伴侶を得られる、というような男性主体の考え方で、これぞフリーメーソンなのかどうかも、私にはワカラナイ・・・。人間とは表裏一体、善悪、裏表、光と闇、全てが同居・・的な事が結論なのかどうなのか。

で、この論理が破綻しているように、話の筋の運びも無理だらけ綻びだらけで、ムリヤリ感が満載なのです。

これだけヒドい話の筋をなんとか納得させるために、度々場面の転換が行われ、不思議な力(雷鳴と稲光)によってなし得た!と、ケムにまく・・という手法を取っています。そもそもきちんとした舞台を作ろうとすればする程、その矛盾から、舞台転換が煩雑になりすぎて、時間ばかりかかるので、なんとか簡略化を考えなければならない。そもそもオペラ劇場できちんと上演する事を前提に考えられたものではない・・・という訳です。

でもね、まったく場面転換が行わなければ、観てる方は納得すら出来ないのですよ。舞台上の装置は最低限で良いから、必要な転換はして貰わなければ困る。いくら引っ越し公演だからって、東京文化会館の大ホールは、きちんと対応する事の出来る劇場です。

この日の公演は、一幕から最後まで舞台上が全く同じ。王子が助けられた場所=夜の女王の登場シーンとザラストロの王国の見た目は何も変化無し。おいおい・・・。同じ背景でモノスタトスがパミーナに言い寄るし、それを助けたパパゲーノが王子と落ち合うのも同じ場所。ザラストロと家臣が王子を仲間として認めるかどうかを相談をするのも、全部舞台上の見た目は同じ。これなら、幕間の休憩なんて要らない・・もっと短時間で良いじゃない!

王子を襲う大蛇を、なんだか判らない怪獣に変更しているのは許せるにしても、それとそっくり(もしかしたら同じ?)なヤツが、王子が吹くフルートの魔力で動物達が喜んで踊り出すシーンで出てくると、納得のしようがない。さっき殺されたじゃん!もう少し金使えよ!!

なんだか、恐ろしくお粗末な演出で、途中から可笑しくなってきて、修行のシーンで(←ここは、どうやっても不自然さ炸裂!怪しさ大爆発!なシーンではあるのですが)とうとう吹き出してしまい、プルプル肩を震わせながら堪えるのに必死だった。水・火という象徴的なものに打ち克ち、禊を受けるという様な観念的なシーンなのですが、青い(赤い)タイツに同色のヒラヒラを持ったヤツが二人出てきて、ヒラヒラ踊りながら主人公の周りを往き来するだけなんだもん!王子とパミーナは大真面目な顔で魔法のフルートをかざしてるのに・・。

DreiDamen(夜の女王の3名の侍女)がちょっとした振り付けとともに歌ったり台詞を言う事だけ、ちょっと気に入ったけど。

いやいや、演出家とか指揮者とか、制作側の人達はホンマに客席で観てご覧よ!どれだけ納得出来ないか判るから。送り手サイドは、客(受け手)の立場になる事がどれだけ大事か痛感させられました。ワルシャワの劇場はいつもあんな演出なのかなあ?(旧東側であるポーランドはお金がないから、劇場の予算も引き締められてるんだろうけど。)どうせ日本人だからオペラなんか判らんよ。これくらいでエーのんちゃう?だったのかなあ。

・・・で、結論。それでも最後まで観られるのです。演者(特にパミーナの声が秀逸!)が頑張っていた事もあるけど、やっぱり「これぞモーツァルト!」音楽が素晴らしい。これがモーツァルトの音楽でなかったら、途中で破綻しています。なんだかなあ。今頃になってこんな事に気付かされるか?私はTubaという楽器を選んだせいで、Orchestraの仕事の中でどれだけ損をしたのだろう(時代的にtubaはなかったので)とまで考えた。

ものすごく色々考えさせられた公演でした。

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