むかし噺 貝島克彦メモリアル 4

○アメリカ留学

その後、大変な努力の末、念願のアメリカ留学、それも超!エリートだけに許される米・国務省の招きによる「フルブライト給費留学生」の資格を得て、である。留学することすらまだ珍しい当時(1$=¥360の時代!、しかも円の国外持ち出しが未だ規制されている頃の話である!)音楽学生、しかもTubaでこの資格を得る事は大変に困難だったそうで、前出の川村氏によれば、常に新しい曲に取り組んでいなければならず、それも広い時代にわたって様々な様式のソロをこなすために、伴奏ピアニストとともにいつも研究を続けていたらしい。氏は何度も「譜めくりに付き合わされたよ!」という事であるが、その口調は誇らしげではあっても決して迷惑そうなもので はなかった。

留学のための試験での課題曲は、古典派、ロマン派からアレンジ品、そしてオリジナル作品を各1曲ずつ計3曲を演奏しなければならなかったそうである。ロマン派は前記R.Strauss、オリジナル作品はVaughan=Williamsだったとのこと、古典派は残念ながら不明。勿論、音楽のみならず、語学をはじめ、音楽以外の様々な要素でも多岐にわたる試験をクリアしなければならず、その努力たるや並大抵ではなかったようである。

この留学決定を記念して、故郷飯塚でも「ソロリサイタル」を開催。面白いことにジュリアード音楽院へ留学、とプログラムにある。宮川氏によると、当時「バーンスタイン=NYフィル」の初来日時に、W.ベル氏が同行しており、氏がパーティー(飲み会!とおっしゃってました)をセッティング、その際に「貝島君がベル氏と初顔合わせをし、インディアナ行きを決めたんだ。」との事。

アメリカ時代の、先生ご本人から聞いた思い出話では、W.ベル氏にも大変可愛がられ、しょっちゅう飲みに誘われた(ガクタイは何処も同じ?、しかし、ベル氏は、酒場でのソロやアンサンブル演奏等もしており大変楽しかったそうである)こと、ローマ字で書く「Kaijima」の中に「jim」の文字がある事をベル氏が発見「君はJimだね」とニックネームを付けられたこと、すぐに能力を認められ、ベル氏のクラスの初級者向けのアシスタント的なレッスンを任されたこと、同級生のF.Cooley氏(前サンフランシスコ響)と仲が良く、いつも「おまえのようなきれいな音が出したい」といわれた自慢話(!?)など、どれをとっても、いつもとても楽しそうに話されていた事が鮮明な記憶として残っている。そういえば、大きな声ではいえないが、そのF.Cooley氏とは、ともにインディアナ大学の女子寮に夜中にパ××を盗むために忍び込んだこともあったそうである。

…そっち関係の話はさておき、大きな経験と知識をたっぷり吸収して帰国した貝島師匠は、武蔵野音大の講師として後進の指導にあたるようになる。ようやく我々の知っているあの師匠(譜面台が高い!等のアソビはもっと後年になってから…)の顔になってきた!W.ベル氏から受け継いだ最新の奏法や技術を皆に伝えはじめたこの頃、牛尾氏や亀山氏等がその最初の門下生となったのである。

アメリカからの帰国の際に日本では初めてのC-Tuba(ケルン=シェルツァー社製)を持ち帰り、その後日本でのこの楽器の普及に大きく貢献する。またその際に持ち帰った膨大な楽譜資料(その後もその蒐集は延々と続いていた)は、未だ楽譜等の輸入量が少なく情報の乏しかった当時のTuba界には大きな財産となった。「Tubaにはこんなに豊富に楽譜があり、こんなに知らない曲があるのか!と、すごく驚き、また助かった。あの頃の貝島君の持ち帰った資料には本当にお世話になったよ」と宮川氏は当時を思い出して下さった。

 

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