…前回の続き
私がこの業界で仕事を始めた頃(約30年前)はまだバブル経済以前で、やっとオーケストラが職業団体として(それ以前は手弁当的な団体。今でもオペラ界はそんな感じです)安定期に入った頃でした。その後バブル経済に乗り、仕事が増え(もちろん助成金も増え)私自身も大変忙しかった時期でした。業界的には活気も勢いもありましたが、この状態を安定させるというところまでは頭が働かなかった…まあ、日本中がそうだったのですが。(しかし音大出はみんな頭悪いからね!漢字は読めない・算数は出来ない。私は二桁の引き算は今でも嫌いです:笑)
歴史的に言えば、昭和初期の日本のクラシック黎明期、日本国内には数える程しかオーケストラが存在せず関係者が手探りで一部の好事家と数少ない専門家でクラシック音楽が成り立っていた時代から、戦争時の軍楽隊で楽器演奏家が必要になった時代。そういえば、戦前にもサイレント映画での「劇伴」と呼ばれる仕事での演奏家が必要で、オーケストラ奏者がこれを兼務したりもしていた。要するに楽器奏者の絶対数が足りなかったのですね。私の大師匠(近衛響→N響の初代Tuba奏者)がやはり劇伴の仕事を兼務していて、20歳くらいの私に「君が今仕事をするとギャラはいくらくらいだね?」と訊ねられたことがあった。その時私が口にした金額を「ワシの頃と変わらんな…」と言われた。時代的に考えて、当時本番1回のギャラが¥1万円近かったとしたら、第二次大戦前ならサラリーマン(それもかなりの高給取り)の1ヶ月分を一晩で稼いでいた訳ですからものすごい収入です。(このお師匠さんは豪快な人で吉原に一月居続けて、N響に通った事もあるらしい…まあ、伝説ですけど。でも、当然それくらいは出来る収入だった訳です)その後、戦後の米軍キャンプ巡り〜ジャズブームの頃までは演奏家は間違いなく高収入でした。そういえば、戦後ジャズトランぺッターに転向して稼ぎまくっていたある高名なホルン奏者をN響の首席に呼び戻した時に、その人のご母堂から「なんてことをしてくれたのだ!ウチの息子の収入を1/10以下にするのか」と怒られた事もあったと、先の大師匠が話していました。
簡単に言えば、需要と供給の関係で「求める人が多く、それを出来る人が少ない→儲かる」という単純な図式です。この単純な商売の法則を音楽家は忘れてしまった!現在の日本のクラシック音楽の世界は「求める人が少ないのに、それを供給したがる人が多い→儲からない』という当然の図式の上に、今にも崩れ落ちそうに不安定に存在しています。
そんな状態なのに、なぜ不安定にしても存続しているかというと…
まず、音楽家は仕事を商売として見ることに抵抗感がある。芸術家は「商売=金」の話をしては品位が下がる…まあ、分らんではない考えです。プロなら当然仕事として=商売として考えるべきなのに。そして芸術家とて「霞」を喰っては生きられない筈なのに。
ドイツのオーケストラ界の有名な笑い話に、
「Sind Sie Künstler?」「nein, ich bin arbeiter」/「Sie sind arbeiter」「Nein! ich bin Künstler!! 」
…というのがありますが、これこそが典型です。オーケストラの労使交渉の際に「あなたは芸術家ですよね?」と訊かれれば「労働者」だと答え、「あなた方労働者は」と言われると憤然と「私は芸術家です」と否定する。
だから、少々不安定でも、その事には目をつぶって(または本当に気付かない頭の悪い:でも音楽的には素晴らしい奏者もいる…らしい…ような気がする:笑)活動を続けている。または、好きな事をやっているのだから、少々の悪条件は自分で選択をしたことだからと諦めて、好転する努力をせずに現状維持に甘んじている。
外的要因としては、クラシック音楽(だけではなく、文化全般と言って良いかも)を愛好し、応援・保護すると言うと、世間的に体裁が良い事。だからこそ、政財界人が、人気取りやステータスシンボルとして、特定の音楽家に援助をする。政治家が公的助成金システムを作ったりもする。有名音楽家が政財界人をうまく丸め込み(←ナイショ!)オーケストラを作ったりもする。その場限りの考えだから、どのようなシステムが本当に役に立つかなどとは考えもせずに。また、その音楽家と特定の有力者の関係だから、どちらかがいなくなれば(死亡する、または、力がなくなる)この関係は破綻する。Nショナル:M下氏とDフィル:A比奈氏の関係やK沢とI城氏との関係、もっと言えば、T京都のM濃部氏とT響の関係だってこの図式に当て嵌まる。そもそも、18世紀頃のヨーロッパの貴族・王族と音楽家の関係はこうだったのだから、ある種正しい姿と言えなくもないのだけれど、現代に当て嵌めると無理があるなあ…しかも、日本ではオーケストラは保護すべき伝統芸術ではない。だから、その関係のみに特化されたある種の自己満足に過ぎず民衆がついて来ない。とりあえずオーケストラが存続出来るお金が入ることではなく、結局は集客を考えなければ将来的な展望に意味がない事なのに。
日本の伝統文化では、例えば、能・狂言等は、師弟関係、徒弟制度で収支が成り立っている。これもある種正しい姿で、古くは近所の若者を集める小唄のお師匠さん、ピアノ・ヴァイオリン・うたの先生と門下の子供達にも当て嵌まる。これをさらに拡大解釈すると音楽大学の制度になる。でも、これは最初に書いたステージでパフォーマンスを売るというところからは外れた形ですね。歌舞伎だけは松竹芸能という株式会社の元で興行が成立し、演者とファンの数のバランスが上手くいっているからこそ、どの公演でも満員でチケットが取れない=仕事として成り立つ。従って国が保護する必要はない。時々人間国宝とかって褒賞すれば良いだけ。相撲もそうですね。
以上は、ものすごく偏った、大雑把な言い方で解りやすくしているだけであり、例え歌舞伎でもトップとそれを支える人との間には大きな隔たり(収入も地位も)があるのはもちろんです。でも、それぞれのトップにはそれなりの人気があり、それが舞台上での仕事としてその業界を支えている。しかし、オーケストラの存在形態が「トップスターの人気に頼る」というあり方ではないので(オペラとバレエは、少し当て嵌まるかも)この図式もあてはまらない。業界全体の人気(集客)で言えば、日本のオーケストラは「N響」さえあれば良いのか?いやいや、N響も要らない??ことになるのか。
…続く(←まだかい!)