27年前

単独航空機の事故としては世界最悪の犠牲者数を出した、日本航空123便の事故から27年というニュース報道。群馬県御巣鷹山中に墜落した日航ジャンボ機の事故の一報は、その日の夕方、突然…といった感じのニュース速報で「日本虚空123便大阪行が消息不明になった」といったきり何の続報も無い状態で、いったいあれはなんだったんだ?と感じた事を思い出す。

その後も、一般人である我々は何も知らず、しかし、日本航空はもちろん、警察と自衛隊と米軍が躍起になって消息を追っていたらしい。時間的に考えて(燃料の量からも)墜落したのは確実で、しかし、どこに落ちたのかわからない。駿河湾上空で事故機らしい航空機の目撃情報が…などと、断片的な情報がぽつりぽつりと出始めた頃に、当時K察庁勤務だった父から電話があった。その日、私は2・8が暇なガクタイ、それも卒業して4年目だから、そもそも、さほど忙しかった訳でもない学生時代の仲間達を誘って、長野県小県郡N門町(現N和町)の山小屋に遊びに行っていた。

様々な情報の中には、長野県佐久近辺での目撃情報もあったらしく、佐久の隣町といっても良い場所にいる私に、父は藁にもすがる思いでの「何か無かったか?」という問い合わせ電話だった。何も知らないノーテンキな我々は、ロケット花火を打ち上げたせいか?などと冗談を飛ばしていたが、その後、家の前の狭い道路にまで、自衛隊の一連隊くらいの物々しい捜索の車が行き来するに及んで、これはエラい事だとやっと理解し、翌日からの報道で夏休み気分が吹き飛んだ事を思い出す。一緒に来ていた同級生のFg奏者石Kは、群馬交響楽団に所属しており、遺体安置所になった藤岡体育館で予定されていた本番はもちろんキャンセルになった。この事故では、坂本九さんが犠牲になり、もし藤岡体育館での本番があったら、何を演奏しても「見上げてごらん、夜の星を」になってしまう…というような、質の悪い冗談も言ったが、とにかく1人の少女を含む数名の生存者がいる奇跡に目を瞠った。(そういえば、逆にたまたま運良く予定を変更したA石家さんまが難を逃れたなどという話も後から聞いた。)

早々に予定を切り上げての長野からの帰り道、車で関越自動車道を東京に向かう折に、普段見慣れないたくさんの黒いワゴン車を追い越した。最初はあまり気にも留めなかったが、ふと犠牲者を運ぶ寝台車なんだと気付き、改めて事故の大きさを実感した一瞬であった。合掌。

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