○オーケストラ事情
当時のオーケストラ界では、Tuba奏者は数えるほどで、東京芸大・大石清氏、武蔵野音大・佐藤倉平氏の他、元読響・中沢氏(故人)、原田元吉氏(元N響)、宮川暉雄氏(前新日本フィル)、北洋氏(元大阪フィル)らが活躍していたが人数としてはこの程度。もっとも、Tubaの出番も少な く、たまに必要なときはコントラバス奏者の持ち替え等もあったらしい。ちなみに、Tubaの籍を持つオーケストラも少なく、例えば多戸氏=札幌響・稲田氏=群馬響など、学生時代から、専属に近い仕事が回って来ていた様である。技術さえあれば 仕事はあった時代(重ね重ね善い時代!)だが、逆にレベルの方も…?。前出の 春山氏によれば、「当時、HrとTubaは、はずしても廻りもあまり気に留めないようなレベルの人が多かった…様な覚えが…」とのこと。また、当時はB管主流で、貝島氏のごとくF管に早くから目をつけ、Tubaでメロディーやハイトーンを練習するなど考えられなかった様で、春山氏は「当時の主流からいうと、F管はTubaの印象ではなく、B管の方がずっと好まれたんだよ。」と当時を振り返って話されていた。
貝島師匠は、前述のごとくF管吹きとして、メキメキ頭角を現し、前記のような世相のなか、逆にハイトーンの必要な様々なオーケストラ曲で、その存在をアピールしはじめたのである。当時の日本フィルは大曲・難曲の演奏回数が多く、編成の大きな曲(春の祭典や幻想交響曲等々)の演奏機会も多かった。前出の宮川氏は、当時日本にただ一本だけ武蔵野音大にあったAlexander社製のF=Tubaで、これらの曲を試した後、ご自身も同じ楽器を手に入れたそうで「学生で、同じ楽器を上手に操る貝島君はとても重宝で、良く日本フィルにエキストラに来てもらったものだよ。」と話されている。「山田一雄氏の迷指揮に惑わされ(??)幻想=怒りの日のSoliで貝島君だけ飛び出したこともあったよなあ!後で二人で文句を言いに行ったもんだ」等と当時のエピソード(この手の話は弟子としては生きている内に掴んでおきたかった!)を思い出して下さった。当時の指揮者からの覚えも目出度く、渡辺暁雄氏や山田一雄氏、大フィル朝比奈隆氏らから可愛がられ、時々家に遊びに行ったりもしていたらしい。また、未確認情報ではあるが、Vaughan-Williamsの協奏曲の譜面は、朝比奈氏がヨーロッパで見つけたものを「貝島君ならハイトーンが得意だから 」と貰ったもので、それが日本に入った第一号の楽譜(後に日本フィルのアメリカ旅行の際に、宮川氏が「こんな曲がある!」と買ってこられたものと時期が重なるかもしれないが)であり、これが大学4年時の日本初のTubaリサイタルでの同曲の初演に結びつくのである。