今年もヒロシマとナガサキの記念日が来ました。65年経ってやっと投下した国の人間が式典に参列しました。惨事は私が生まれる14年前の事です。(もちろん惨事は我が国だけではなく、そして、我が国でもヒロシマとナガサキだけではないのですが・・) 父が広島の庄原(先日豪雨の被害があったところです)に疎開していて、その山の中から原爆(当時の名前は新型爆弾)のキノコ雲が見えたという話を聞いているだけに、他の人よりは身近に感じられていたかも。(ずっと気になっているのですが、日本はこういう歴史を後世に伝える事が不得手な民族だと思う。しつこさが足りないというか・・。逆にそのあっさりした気質が良い事もあるとは思いますが。)
大人になって、広島に原爆ドームを見に行った時(H島交響楽団の仕事の合間)に、あれだけ見慣れた建物(毎年甲子園の中継の時にイヤというほどアップで写る)が、全く異質な言いようのない無言の圧迫感を発する事=ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム記念教会でもまったく同じ感情に捕われた=が解り、テレビは何も伝えない事を痛感した。(これもあって、私はコンサートや舞台のテレビ中継を否定し始めるのだけど、それはまた別の機会に。)そして、こういう感覚こそ次の世代に伝えなければならないと強く感じた。
最近、オバマ米大統領が核廃絶を論じはじめて、世界から評価を受けていますが、本当にそうだろうか。話の方向性はまったく違うように感じているのは私だけ?
もちろん、アメリカのこれまで通りの意見も多く聞こえます。ヒロシマへの参列はアメリカの謝罪ではない。これがオバマ政権にとって幾ばくかのダメージを与えるだろう。原爆投下によって終戦が早まった事で、たくさんの命を救った事になる・・等々。これらは、過ちを認める=補償の問題になる事を憂えているのでしょう。これは、彼らの国民性(教育)の問題です。
核の抑止力・・というのは、簡単にいえば、虚礼廃止的な方向に動いているように思う。形だけの暑中見舞い(中元)や年賀状(歳暮)は無駄だから止めましょう。でも、ウチだけは、ちょっとやっぱりなんだからあれしとこうか・・・的な。平和のためには、危険なものを人間がコントロールして利用するという意味合いでは、永世中立国のスイス軍と構図は似ているかもしれない。
さて、その「抑止力」は、同じ考えの基では効率よく働くかもしれないが、そこに考え方の違うものが入るとまったく働かなくなる・・どころか、危険極まりないものとなって自らを脅かす。アメリカはやっとそれに気付いたのでは?・・と感じているのです。
そもそもアメリカは(私は基本的に、アメリカをあまり好きではない部分が多いので、発言がある種過激になるけど)「他人の自由を脅かすものは、武力を持ってでもそれを阻止する」という考えの基にあちこちに戦争を仕掛けている。これは彼らの教育のなせる技であると思う。(これをもってしても、教育の重要さが解る。逆に言えば教育って怖いよね!)そして、私からすれば大きなお世話だと思うあちこちに出かけていって戦争をする。
今まではアメリカの力(経済力と軍事力)が大きかったから誰も表立って反対はしなかったけど、皆がみんな同じ事を考えていたとは思えない。私のように大きなお世話だと思うけどなあ!って考えてた国や人も多いのでは?
戦争すれば儲かる事も大きいでしょうね。(日本だって第二次大戦で負けて、大きな被害を受けていなければ「今頃、どこかに戦争を仕掛ければ、こんな不況には陥らなかったのに・・」位の事を思っている輩が絶対にいるはず。)「儲かる」から、という考え方は基本かもしれない。そのためにどれだけマイナスが起ころうとも目をつぶる、または見えない振りをする、または見えなくなりそうな論理を振りかざして大衆をケムにまく。原発もエコもみんなそう!
近年、アルカイダに象徴されるイスラムの過激派(この人たちのやり方を賛美する気は毛頭ないけれど)のように、自らの命を捨てて自らの(または信ずる神の)主義主張を訴え、敵に対するダメージを与える事のみを追求する人種(日本の特攻隊も同じだから彼らにとっては恐怖だったんだろう、なにしろ理解できない事だから!)が目の前に現れ、それが目前の敵となった時に、先の「抑止力」が働かない考えの人間がいる事に初めて(または久しぶりに)気付き、大きな脅威を感じているのだと思うのです。
だから、核を持つのを止めよう、地球上から核を無くそう=だって無くなったら、使えないからね=と言い出したように感じるのです。あれば、「自分が・地球がどうなろうと、敵(であるアメリカ)に使う可能性を持つ人間がいる事」に最近になって気付いて、怖がっているのだろうと思う。
人間はいろいろな考えの人がいるのです。同じであろうとする事にそもそも無理がある。「違う事」を理解する事が必要なだけだと思う。
一神教と多神教(アミニズム)の問題もあると思うけど・・これも別の機会に。
日本人だって同じように人種や宗教などの文化による違いを知らな事は多いと思うけど、そして、それぞれの持つそういう個性は尊重すべきものだとは思うけど、現代のように、メディアや交通も含めて地球が狭く・近くなってきているからこそ、ダブルスタンダード(ダブルとは限らんか)が重要になってくると思う。
戦争を認める気はまったくない。私はどんな事があっても戦争に加担する事はない。戦争は勝っても負けても大きな損失を伴います。人間同士が憎みあって(本当は憎みあう事ですらなく、国の力に従わされて)正義の名の下に殺し合いをするなんてあってはならない。指導者たる者はこれを阻止しなければなりません。
アメリカのオバマ大統領の核廃絶論は、決して一筋縄ではいかない複雑な背景を有していると思います。軽々しく「Nーベル平和賞」(飴ちゃんくれるんと違うよ!←わからんか!)なんて出すべきではなかったとも思う。ヒロシマへの式典参列だって同じ事です。
音楽家だって、これくらいの発言をしても良いと思うんだけどなあ。プラハのように・・。