Communication能力

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昨日の電車の中での出来事がとても気になったので。

Y手線M黒駅から乗ってきたある女性。杖をついていましたが元気に歩いて乗って来ました。大変素早い身のこなし。電車に乗ったとたんにこの女性が床を杖で何度も叩きながら大声で「どきなさいよ!」を繰り返す。別に誰も邪魔をしていた訳ではなく、ただ単にそれまでの自分の場所から動かずにいただけの話なのですが、ご立腹の模様で大変な剣幕です。そのまま隣の車両までの道を強引に空けさせ、隣の車両に移ったと思ったら大声が・・・曰く「障害があります!席を譲りなさい」

・・・なさい!って。

もう、乗客全員が驚きと共にその場の嫌な空気からシーンとなっていました。私はと言えば、あまりの事に、その空気の中に身を置く事自体に嫌気がさし、目的地でもないのに電車を降りてしまった。

なんやねん!これは。こうやって書いているだけでも嫌な気分を思い出して、憂鬱になる。

私は障害者に意地悪をするつもりは毛頭ないし、ましてや、お年を召した方や事情のありそうな方にはどちらかというと率先して(気がつけば)席を譲るタイプの人間だと思う。

障害のある方には手を差し伸べるべきだと思うのだが、それはお互いに「やりましょう」「ありがとう」というコミニュケーションの上に成り立つ事だと思っている。障害は気の毒だけど、その人の生まれながらの人生だし、ましてやそれは私のせいではない。私の方があなたより出来る事が多いから「お手伝いしましょう」であって「して当然でしょ!」って言われたら、べつに当然とは思わない。

どうしたら良いんでしょうねえ、これ。

こういう「強い」生き方が彼らには必要なんだろうか?こうしないと健常者(これも嫌な言い方だなあ)の中では普通に生きられないのか?

以前にも出会った事のある(ある時は「私は心臓が悪いので携帯の電源を切れ」と一人ずつに言い回って歩くおばさんだった。電車の端から端まで何両も歩き回って。「元気やん!」と突っ込んで周りの客から笑い声が起こった。)タイプのこの手の人たちは(前述の人は、心臓より精神的な問題だとは思うけど)なんなのだろう。

以前から、盲目の人に批判的な事を私が言うのは、同級生にそういうタイプの人間がいたから。して貰う事が当然になり感謝をしない→してくれない人間に批判的になる→障害を盾に高圧的になる。

私は、出来る事は手伝うけどそれが義務だとは思わない。私の好意。(点字の楽譜作りを手伝うのって大変なんよ!いちいち音符一つずつを口頭で伝えるのです。時間と根気が必要)

した事に対してお礼を強要もしない(当然!)けど、相手に当然と思われてまでする必要はない。あんまり嫌な奴だったので「お前の目が見えないのは俺のせいではない」と言った事もある。

仕事でも、目の見えない方との共演はよくあった。でも普通レベルの演奏能力で目が見えないことが「追い風」となってソリストになったりしていると「甘えてんのんかい!」と思う。あなたが見えない分、こちらは(演奏上で)ずいぶん協力をしているんだよ!って突っ込みたくなる。同じ土俵の上にたって、同じレベルで仕事をしてくれたら、その方の人並みはずれた(我々には思いも及ばない)努力に対して、拍手と賞讃を惜しむつもりはない。でもね・・・。

「可哀想だからやってあげている・・事に酔っている」サポーターというのも嫌だなあ!どっちにせよそれも差別の一つなのに。甘えている人は、もしかしたら「弱者」として差別されたがっているのか?その方が生きやすい?

ドナー登録にも思いが及ぶなあ!私は、死んだ後に自分の身体が誰かの役に立つなら切り刻まれるのを厭うつもりはまったくない。何かがあった時に臓器の移植によって助かる命がある・助けられる技術がある、そのための医療の進歩に対しても批判する気はまったくない。だけど、出来るんだから助けてよ、そのためには誰かが「死ぬ」のを待ってる、という姿勢そのものが嫌だなあ。自分が(身内が・・特に「子供の命」がというと全てが許されるような風潮も嫌だ)生きるために誰かが死ぬのを待ってる・・のは正しい方向だろうか?このせいで私はドナーの登録はしないと決めている。

いずれにせよ、これってCommunication能力の問題だと思います。日本人はどんどんこの能力が落ちてきているとも思います。

すみません、今日は過激かも!お知り合いに障害者のいる方が不愉快になられたら謝ります。でも、私は本当の意味で「差別しない」世の中になった方が健全だと考えているだけなのです。

*Communication 名詞

伝達・報道する事 伝える事

伝染

通信 交信 文通 書信 手紙 伝言 連絡

(複数形で)交通期間 報道機関

言葉身振り記号などによる伝達過程


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