昔噺その1(編曲編)

まずはタイトルにツッコミ!から…

「昔」なのに「噺」(口偏に新)だし、編曲編って、漢字の回文みたいだし…

さて、

1970年代後半に音楽を学ぶ学生だった私は、楽譜について、今では考えられないほどの苦労をしていた。コピーが高額だったので、楽譜は手書きで写譜するのが当たり前。コピー機が普及するまでは設計図などで使う青焼きで楽譜をコピーすることもあった!実際に目にもしたし、持ってもいた。日に焼けてすぐに薄くなっちゃうんだけど…もっと以前は手書きしか方法がなく、オーケストラの弦楽器のプルト(2人1組に1冊ずつの楽譜を共通して使っている)数分のパート譜増も手書き。仕事をし始めてからも、オペラやバレエの公演で、外国の劇場が引っ越して(演出や曲順も)きて、オーケストラだけ日本で担当して演奏した時などにも、その劇場で使っていた楽譜が日本に送られて使用されたが、それも全てが手書きだった。(だから、色々面白いこともあったけど…Tubaがこの先しばらく出番がない–まあ、特に珍しいことでもない・笑–曲のパート譜に、この先20分以上暇だから、劇場の裏でお茶が飲める…とか書いてあったりね!)

輸入楽譜も少なく、輸送にも時間がかかり(船便が殆ど、航空便は高額だった)、楽譜業者は、どうしても、ピアノやヴァイオリンなど人数の多い(ショーバイになる)楽譜ばかりを扱うことになる。まあ、当然!…管楽器なら、フルート、サックス、トランペットくらい。Tubaなんて、あの楽器ってソロ吹けるの?どころか、そんな楽器あるの?なにそれ?という程度のもの。Tubaを専攻する学生は、曲のタイトルだけ見て、暗中模索で輸入楽譜を発注するのが当然だった。それもお金に余裕のある時だけしかできない。

話が少し横道に逸れるが、N響初代Tubaで、私の大師匠佐藤倉H先生が1987年に亡くなられた際に、遺言で「集まった香典でTuba図書館を作って欲しい」と言われたのもそういった背景だったし、師匠の故・JimK島克彦も、私費で、たくさんの楽譜を個人輸入して、大学の図書館に寄付していた。大学生時代、新しい譜面が届くと、師匠の家に呼ばれて、「ふ〜ん、こんな感じの曲か…」なんて言われながら、端から初見で、何時間もバテるまで吹かされたことを思い出す。

さて、そんな時代(もちろんInternetも携帯電話–電話は黒のダイヤル式電話機–もなかった頃)だからアンサンブルの楽譜だって同じ状況。そんな頃にPhilip Jones Brass Ensemble や Canadian Brass が来日して、センセーショナルな演奏を披露していた。学生はもちろん、当時の日本のプロ奏者だって、皆が衝撃と影響を受けた。だから、どうしても彼らの演奏していた曲を自分たちも演りたい。プロも学生も。だから、どーしても楽譜が欲しい!どこにある?ない?ないなら誰か作れないか!?

Philip Jones 氏の元に留学していた、祖堅H正氏(東京フィル〜N響)が主宰して始めた「T京ブラスアンサンブル」には、師匠のT戸や先輩の牛O氏が参加しており、他の楽器にも親しい先輩が多数いて、私からごく近い存在だった。よくエキストラで参加もした。そこで、私が楽譜も書くし、ソルフェージュ能力が高い(要するに耳コピができる)という評判を聞いて、LPレコード1枚を託され「この全曲の楽譜を作ってくれ!」なんていう無茶振りがしょっちゅうあった。しかもそれを、平然と公演で使用していた。著作権はどーなってたんだ?笑

まあ、この頃の日本の音楽界は、これが普通、常識だったなあ。知的所有権についての認識がそれくらい今と違った。悪名高いJASRACもできたばかり(そもそも芥川Y寸志氏が、自身の経験から作った団体なので)で、まだ体制もきちんとしておらずに緩かった。特にクラシック関係には。

もちろん編曲作品に私の名前はどこにも出ない。この手の楽譜は、たくさんあるよ!(いやいや、内緒か!)

その後も、私に楽譜を書く能力があるとわかった諸先輩や同級生達から「この曲をこの編成にして」などという依頼がたくさんあって、たいしたギャラも貰わずに、私の名前の出ない編曲作品が世の中に相当数出回ったはず。もちろん私自身が関係するコンサート分も含めて。

というわけで、私の編曲は、全て本番ありきで、演奏されることが前提。楽譜を書けば必ず音になる(それもプロの演奏で)という、作曲科の学生からすれば、信じられないような好条件で量産されていたわけ。めでたしめでたし ←なにがや!

今日はここまで…

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