終末医療

桑名正博が亡くなりましたなあ。約3ヶ月・100日間の闘病…でも、絶対に治らない病だった。はっきり言えば死ぬのを待つだけ…脳幹出血。年下の友人を同じ病気で一瞬にして亡くし、父を同じ脳幹の梗塞で2年の闘病を経て亡くした私としては、思う事が多い。これって本当にこの3ヶ月は必要だったんだろうか?

人は、家族が倒れたら、いやいや、全然知らない人でも、人が苦しんでいたら医者に連れて行き「助けて下さい」というのが当然。どこぞの尼崎のオバハンみたいに「人の死に無神経」になんてなれるもんじゃない。あれは悪魔や…

さて、では今度は医者の側の問題。医療が進歩して、治る病気が、助けられる事例が増えたのは素晴らしいこと。でも、人は必ず死ぬのです。人間の死亡率は100%なんだからさ。じゃあ、どうやったら幸せに死を迎えられるかも考えなければ。ただ生きてりゃあ良いってものではない。桑名正博は気管切開までしたらしい。絶対に治らない病気なのに。気管切開をしなければ呼吸が出来ないのなら、そんなに苦しむ前に死なせてあげられないのか。医者はほぼ正確にその患者の今後を見通せる。私の父の場合も、脳幹梗塞の患者の予後について、担当医からかなり厳しい宣告を受けた。本人も家族も奇跡を待つ以外にその事実からは逃れられない。もちろん桑名正博の場合だって、医者には遠からず死が来る事は見えていた筈。無理をして生かして、生きてるからって気管切開までする。その痛みや苦しみと、それにかかる費用は無駄としか言いようがない。

もちろん家族が「ただ生きているだけで良いです。身体中が管だらけになっても1日でも長く生かして下さい」…と望めば、今の医療ならそれも可能だろう。でも医者だって「これをしたらこうなります。それでもせいぜいこの程度しか生きられず、生きていてもこの程度の生活しか出来ない」という見通しをきちんと説明して、生かされてる本人と家族や周りの人間が、精神的にも経済的にも、どうやったら一番幸せかを選択出来るようにならないものか…

私が病に倒れて、カミオムツの世話になったり(文字通り自分のケツも拭けなくなる!)、他人の介助を受けなければ風呂も入れないくらいなら、精神的に参ってしまうだろう。生きている意味も価値も見いだせない。人として尊厳を持って生きる事はその人の持つ権利なのだから。私の父のように、倒れてから死ぬまで、話す事も食べる事も動く事も出来ない…のなら、人として「生きている」なんていえない。生かされてるだけ。

でもね、目の前にそれでも生きてる人がいて「この管を外して下さい」とはなかなか言えない。以前も書いたけど、私も父が元気な頃によくこういう話をして「もしそうなったらすぐに管も外して楽に死なせてやる」と約束していたのに、脳梗塞の発作が起きた時には「なんとかして助けて下さい」と医者にお願いした。

医療技術が発達して、昔なら当然死んでいた人が簡単に生かされる。でも、その先はフォロウ出来ていないのが問題だよなあ。昔の方が、医者も家族も、もちろん本人も選択肢がなくて(つまりもっと簡単に死ねて)簡単だっただろう。欧米の方が、日本よりこういう「寝たきりの老人」「生かされてる病人」が少ないという話を聞いた事があるが、本当のところはどうなんだろう。

私は、さっさと見捨てて欲しいなあ。どうせ間違いなくそのうち死ぬんだし…う〜む、今日は笑いどころなし

2 Responses to “終末医療”

  1. 侘びさび沙羅双樹 より:

    久しぶりにブログ拝見させていただきました。

    終末医療ですか…。先日亡くなられた桑名さんは、病院に運ばれて104日で永眠されたそうですね。ご冥福をお祈りします。
    幸せな死…を望む人は多いかもしれませんが、私は死に幸せはないと思います。“満足いく死”といった方がいいかと。死に悲しみは伴うものです。でも避けて通れないもの。
    桑名さんは、家で倒れていて、病院に運ばれた時には脳幹出血とわからずに、まずは心肺蘇生が必要だった…。医療者は重病を抱えていなければ、まずは心肺機能を取り戻すことに力を注ぎます。口からホースくらい太い挿管チューブを入れ、自発呼吸がないか、弱いか、そういう時は人工呼吸器を使います。気管切開は挿管して一週間ほどしても意識が戻らない、挿管チューブが抜去できないときは行う…そのほうがいい場合が多いのです。

    周りにいた誰もが、意識や呼吸が戻ってほしいと思っていたに違いない…。脳死ではなければ、呼吸器をはずすことはできないのが現状です。

    がんや重病の終末期と違い、こういうケースの終末期はいつくるかもわからない。ご本人もそうだけど、家族や周りの方も大変だったかと思います。あれだけ壮大なロック葬をしてもらった偉大な人だっただけに、惜しいでしょうね。

  2. nishida より:

    侘びさび沙羅双樹 様
    お久しぶりです。コメントありがとうございます。
    プロからコメントされるときついのですが…脳卒中系のいつ起きるか判らない病気に対する現場の対応は(私の経験からも)判っているつもりです。
    しかし解っていてもなお、この様なことを考えてしまう。幸せな(もちろん満足のいく…でも構いません)死を迎える=尊厳を持って最後まで生きる(最期を迎える)事を選べるようにはならないか。
    無駄な(すみません、プロは無駄だとは思っていないのは承知の上です)手術で身体を傷つけたり(気管切開も、一瞬の痛みよりその後の本人の状態を考えて行っている事も承知しています。私の父もこれを行いましたので、充分な説明を受けました)、治療費・入院費など経済的な負担に苦しむ人だっているでしょう。
    ここからは医療そのものの否定になってしまい、いささか暴論なのは承知の上で書きますが、これまでなら自然に死を迎えられたであろう人を、無理矢理生かすのは神(自然)に対する冒涜だと考えています。もちろん私個人の意見です。前にも書いた通り、この事があって私は脳死時の臓器提供にも同意しません。世の中の大半の意見が私と違う事も判っています。もちろん私も、私の考えを他人に押し付けるつもりもありません。でも、大半がそうだから「そうする事が当然」となって、現場でではそういう対応をするのが当然となり、私の希望が受け入れられないのも問題だと思っています。他の人はどう考えようと、私(と、同じ考えの人達)は、自分の望む選ぶ権利があるでしょう。
    …って言っておいて、じゃあ、急な発作(私は血筋の問題でほぼ間違いなく脳梗塞を起こすでしょう)が起きた時に、世界中全ての医者に(どこで起きるかも判らないのだから)「こいつはこういう治療を望んでいる」なんて、どうやって表明すれば良ェねん!!…っちゅう話なんですけどね(笑)脳梗塞なんて、最初の発作に対処して助かってみなければ、予後は判らない訳だし。まあ、結局は無茶を言っているだけです。

Leave a Reply